自分にもお菓子作りができるのだろうかと、最近マフィンを焼いて試作を楽しんでいる。
うちにはオーブンがないため、ガスレンジに付属してきたダッチオーブンで焼くマフィン。
娘や妻から美味しいと評価をもらっている。

クルミドコーヒーに学ぶ2は、「ゆっくり、いそげ」(著:影山知明さん)のまえがきの文が、私にはとても印象的でしたので紹介させて頂きます。

(以下、引用)
経済とは元々、中国の古典に登場する言葉で「経世済民(=世をおさめ、民をすくう)」の意であるとされる。
国内でも江戸時代には使われていたようだ。(中略)
それがいつからか「ビジネス」という言葉に置き換えられていった。

ビジネスの由来は、bisig+ness。bisigは古い英語で、ここから派生した形容詞がbusyだから、「忙しさ」をその語源に持つことになる。
時間をかけず、労力をかけず、コストをかけず、できるだけ効率よく商品・サービスを生産し、お金を稼ぐ。

「経済」は「ビジネス」という言葉を経由して、気が付けば「お金儲け」の意で使われるようにさえなった。

対極には、「スロー」を旗印としたムーブメントもある。「ファーストフード」に反対する形での「スローフード」が火付け役となり、スローライフ、スローシティ等・・・。
ベースとしては、進展するグローバル資本主義へのアンチテーゼがあると言っていいだろう。
また、少しトーンは違うものの、近年では「降りていく生き方」「減速生活者(ダウンシフターズ)」といった言葉まで登場し、競争社会から離れ、少ない消費で、少ない収入でも等身大の充足感を実現する暮らし方の提唱も起こっている。

ぼくは常々、この中間がいいなと思ってきた。(中略)

売上や利益は、自分の仕事に対する社会からの評価だ。新しい技術やアイデアで世の中が劇的に変化していく様子にワクワクするし、競争は自分を高める貴重な機会とも考える。

ただ一方で、ビジネスが売上・利益の成長を唯一の目的としてしまいがちで、人や人間関係がその手段と化してしまうこと、人を利用価値でしか判断しなくなってしまうこと、さらにはお金が唯一の価値であるかのように経済・社会がまわることで、ときに景観が壊され、コミュニティは崩壊し、文化は消費される対象となるなど、金銭換算しにくい価値が世の中から失われていく状況にも忸怩(じくじ)たる思いを抱いてきた。
(引用終わり)

ここで記述のある「降りていく生き方」は非電化的な生き方に近い。
しかし、自分がそれを選択しても社会がとたんに変わるわけではないから、競争や少なくない消費を強いられることもよくあり、実現はなかなか難しいと日々感じている。
一方、私は生きがいや生きていくための軸は、人との関わりにあると思っているが、それでも「人を利用価値で判断する」というマインドセットは強固に自分にこびりついていることにこの文を読んでハッと気づいた次第である。

ダウンシフトでもなく、競争社会にどっぷりつかるでもない中間の生き方。
これはいいぞ、と思った。
この本には、今の私にとって大事な何かがあると感じたというわけである。