~クルミドコーヒーに学ぶ7~の続き的な内容です。
著者の影山さんは関係性の作り方について、二つのものが関わると書いている。
自由or不自由と、共生or孤立だ(図参照)。
田舎の関係性は「不自由な共生」となるものが多い。町内会や青年会などだ。
本にはないが親戚つきあいもこれに近いように思う。
以下に引き続き本書にあることを私の文字でかいつまんで書いてみる。

この関係では多くの場合、「関わらない自由」が担保されていない。そして「自由に自分の意見を言い、行動する」には困難が伴う。
うんうん、よくわかる。これまでのやり方にないことなど提案すると、変わり者扱いされればよい方で、大抵はまともに取り合ってもらえない。

それが嫌で都会へ出た人も多いと思う。すると関係性は「自由な孤立」へと移る。
(以下、引用)
自由は手に入れた。ただそれは同時に、すべての物事を「自己責任」でなんとかしなければならないということでもある。「お金がなくなったら」と考えると相当に不安だ。
年間三万人超の自殺者、増える孤独死・無縁死、上昇する未婚率、出生率の低下、保育・介護の外部サービス化、政治への無関心-社会から関係性は失われ、それに由来する様々な問題が顕在化する。

「家への帰り道、犬に吠えられた。うれしかった。」という人がいた。・・・
(以上、引用終わり)
私も大学生活を川崎市で過ごしていたころ、1日を振り返って声をかけてくれた人を思い出すとスーパーのレジの人の「いらっしゃいませ」だけだったという出来事を思い出した。
なんともこれはこれで寂しすぎる。

生きていくうえで自由であることはとても大切だと思う。しかし、それでいて孤立しない関係性はないものかと影山さんは「他人と共にある自由」を構想する(右上の象限)。
(以下、引用)
・・・「存在そのもの」を受け止めてくれる他者がいることで、素にもどれる場所がある-こうしたことはいずれも、一人である限りは得られない可能性だ。
ただこうした前向きな関わり合いを実現するにはやはりコツがある。
-それが「支援の話法」。
「話すことより聞くこと」と「違いを楽しむ」ことだ。
(以上、引用終わり)

人の話を聞き、違いを楽しめば、素の自分に戻れる場所が得られる可能性がある。
ときには感情的になったりと難しい場面も想像できるが、
基本的にはきっと「愉しい場」が提供できるとすればとても面白い気がする。
入り口はガンプラだが、中へ入ればそれ以上の可能性、特に人と人とが愉しく交わるような場としてのカフェができたら素敵だなと思う。